【薬価2億円】ゾルゲンスマに学ぶ「薬の価値」と「命の値段」

薬価2億円が世間に与えた衝撃は大きかったようで、前回の記事「ゾルゲンスマがそれでも安い理由」は大変多くの方々に読んでいただきました。実はこの記事は「ゾルゲンスマは長持ちだからスピンラザよりも安い」というロジックでの説明であり、「そもそもスピンラザが高いのでは?」という疑問に答えるものではありませんでした。

もし比較対象のスピンラザが高いのなら、それと比較して安いからといってゾルゲンスマが本当に安いことにはなりません。実際のところ、本当に問われるべきは「ゾルゲンスマの薬効が2億円に見合ったものか?」という「薬の価値」です。そして、これが高いかどうかはどうしても「命の値段」との比較になってしまいます。

ノバルティスのZolgensma(ゾルゲンスマ)が米国で承認されました。薬価は212.5万ドル(2億3000万円)と発表され、世界一高い薬...

「薬の価値」

「薬の価値」は、「1QALY獲得するのにいくらかかるか」という形で表すことができます。QALY (Quality-Adjusted Life Year, 質調整生存年) というのは、LYG(Life Year Gained, 獲得生存年)をいわゆるQOL(Quality of Life, 生活の質)で補正した値です。1年健康に生き延びるのにかかるコストといったところで、このあたりの定義の説明は他のサイトが詳しいです。

薬剤経済学(医療経済評価)・医療技術評価(HTA)による分析が、医薬品・医療機器の価値を評価し、適正な価格を検討する上で重要なエビデンスになります。薬剤経済学の分析方法や考え方は、今後医療業界では欠かせない知識となるでしょう。

ゾルゲンスマの例を見てみましょう。米国のHTA(医療技術評価)機関であるICERは、SMA(脊髄性筋萎縮症)の評価レポートを公開しています。

–ICER’s update reflects the gene therapy’s new clinical data and FDA label– BOSTON, May 24, 2019 — In light of additional data from ongoing trials of onasemnoge...

下表のDrug Xは、発症前SMA患者でスピンラザと同じ薬効が一生涯続くと仮定したゾルゲンスマを表しています。BSCはベストサポーティブケアのことで、スピンラザを含めて積極的な治療を行わないケースを指します。

発症前のSMA患者にゾルゲンスマを投与した場合、ゾルゲンスマを含む一生涯の医療費は326万ドル(3億6000万円)であり、QALYは22年と見積もられます。一方、ベストサポーティブケアでは医療費は80万ドル(9000万円)であり、QALYは6年です。

従って、ゾルゲンスマはBSCと比較した場合、246万ドル(2億7000万円)の追加費用で16QALY獲得できることになるので、1QALYあたりの医療費は16万ドル(1700万円)ということになります。

参考にスピンラザも見ておきましょう。スピンラザの一生涯の医療費は1200万ドル(13億円)であり、QALYは22年です。従って先ほどと同様の計算により、1QALYあたりの医療費は71万ドル(8000万円)ということになります。

結局、ゾルゲンスマはスピンラザよりも5倍程度費用対効果に優れるということが示されています。ただし、ここではDrug Xと示されているように、ゾルゲンスマが「発症前SMA患者でもスピンラザと同様に有効」かつ「薬効が一生涯続く」という前提が置かれていることには注意が必要です。前者はSPR1NT試験で実証されていますが、後者は少なくとも4年続くということが分かっているだけで正確なことは誰も知らないのです。

「命の値段」

ゾルゲンスマがスピンラザよりもコスパが良いということは分かりましたが、それではゾルゲンスマそのものは妥当な値段と言えるでしょうか?この問題は結局のところ、「1QALYあたりいくらなら社会が負担できるか?」というところに行き着きます。それはつまり、誤解を恐れない言い方をすれば「命の値段」ということも可能かもしれません。

1QALYの相場は国により異なりますが、概ね500万~1000万円程度と考えられています。これより安い新薬なら費用対効果に優れた薬であり、高い新薬なら費用対効果の良くない薬、と見なされるわけです。

ここで気をつけなければいけないことは、QALYは一つの目安に過ぎないということです。1QALYあたり1000万円以上かかる新薬であっても、直ちに拒否されるわけではありません。現にスピンラザが承認されているように、既存治療法の無い希少疾患は特に割高でも許容されます。

これまで治せなかった病気が治せるようになることが、患者とその家族に与えるインパクトは計り知れません。そのインパクトを無視して、他の疾患と同じ基準で扱う(割高だからといって承認しない)ことはできません。あのイギリスのNICEでも、そんな単純な使い方をしているわけではないのです。

また、希少疾患は患者規模が少ないので、多少割高でも財政へ与える影響は大きくありません。SMAの新規患者は米国で年間215人と推定されており、全員がゾルゲンスマを使用しても1000億円もかかりません。もしこれが年間1万人だったら2兆円市場になってしまうので、値下げが必要になったでしょう。しかし値下げをしては原価割れをするので上市しないとか、研究開発費がペイできないから創薬対象にもならなかったかもしれません。


本題から逸れますが、保険というのはそもそも個人で負担できない高額の支出を加入者全員で支えるものです。地震保険に入る人は、震度5の軽微な被害を想定して入るのではありません。震度7で家が全壊するようなリスクに備えて入るのです。

日本の医療保険制度は原則3割負担という、いわば震度5にも備える保険制度です。ちょっとした風邪の診察や、湿布やビタミン剤といったドラッグストアでも手に入る医薬品に、本当に保険償還が必要でしょうか?

医師会や業界団体への配慮から改革は遅々として進みませんが、持続可能な医療という共通の成果目標に向けて、抜本的な改革をしなければならない時期が来ています。2025年には、団塊の世代800万人が後期高齢者になってしまうのです。

ICERの結論

最終的にICERは、ゾルゲンスマの費用対効果について次のような結論を出しました。

To reach commonly cited cost-effectiveness thresholds of $100,000 to $150,000 per quality-adjusted life year (QALY) gained, a value-based price benchmark for Zolgensma would be between $1.1 million to $1.9 million per treatment.

「1QALYあたり10万~15万ドルという基準に当てはめるなら、ゾルゲンスマの値段は110万~190万ドルの間が妥当である」とのことで、ノバルティスの設定した214万ドルという薬価はその上限付近に収まっています。

逆にスピンラザの評価は手厳しいです。1QALYあたり15万ドルという基準に達するためには、スピンラザは現行の38万ドルから65000ドルに値下げしなければならないと主張しています。ゾルゲンスマが承認された今、これはバイオジェンにとって大きな痛手でしょう。

ところで、ICERの報告書の提言として特筆すべきことが一つあります。報告書ではゾルゲンスマにせよスピンラザにせよ、発症前SMA患者の治療が最も費用対効果に優れるということを明らかにしています。そして、新生児スクリーニング検査にSMAを加えることを推奨しています。これを受けて多くの州が新生児スクリーニングを開始しているようです。

治療は早期に始めれば始めるほど効果的だし、費用対効果も高いのです。費用対効果に基づいた新薬の評価に留まらず、医療政策までエビデンスに基づいて提言してしまう。ICERの意外な効用とプライドに満ちた仕事が伝わってきます。

ノバルティスの開発戦略

最後にもう一つ、ノバルティスの巧みな開発戦略を見ておきましょう。実は上記の結論は、ゾルゲンスマの発症前SMA患者での有効性を示したSPR1NT試験の結果を受けて改定されたものです。

報告書の作成当初はSPR1NT試験の結果が分かっていなかったので、STR1VE試験に基づいて乳児期発症の1型SMAについての分析がされていました。この場合は1QALYあたり24万ドル(2700万円)かかると算出されており、先ほどの発症前SMA患者の16万ドル(1700万円)よりも一回り高い数字です。

このデータを根拠にした場合、1QALYあたり10万~15万ドルという基準を満たすためには、ゾルゲンスマの薬価は30万~90万ドルに設定しなければならないことになります。

つまり、SPR1NT試験の結果がゾルゲンスマの価値を3倍近くも高めたのです。SPR1NT試験の結果が出る前なら2億円という薬価は正当化が難しいし、結果が出るまで上市を遅らせれば特許の排他期間が短くなってしまいます。

本結果が公表されたのは2019年4-5月にかけての学会やプレスリリースです。ジャストオンタイムで薬価を3倍近く引き上げることを可能にした、この恐ろしく効率的な開発戦略がお分かりいただけるかと思います。


イノベーションが技術革新と「誤訳」される日本ではイメージしにくいことですが、イノベーションには技術的イノベーションビジネスイノベーションがあります。日本は伝統的に技術的イノベーションが得意ですが、ビジネスイノベーションは全くもって苦手です。

ソニーやシャープ、東芝がスマートフォンの性能向上に躍起になっている間に、アップルが何をしたか?iPodとiTunesで音楽配信の新しいビジネスモデルを構築し、何億台もの端末はFOXCONNに代表されるEMSに供給させ、洗練されたパッケージングと陳列、アップルストアで顧客のロイヤリティーを高めました。

はっきりいってアップルには技術的イノベーションなど何も無かったのに、ビジネスイノベーションで負けたのです。これと同じことが、技術的イノベーションが大事なはずの製薬業界でも起こり始めていると感じます。

新規モダリティのポテンシャルを最大限活かす開発戦略、成果報酬や分割払いといった超高額医薬品の支払い方法の確立、遺伝子検査の収益化、世界中でのキムリアの現地生産体制の確立、これから起こるビジネスイノベーションはもっと過激なものになるでしょう。日系製薬企業がこの先生きのこるにはどうすればいいか。経営者の手腕が問われています。

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